教信沙弥について

 初めまして、出張僧侶の白道(びゃくどう)です。
今回より、ブログを書かせて頂くことになりました。宜しくお願いします。

本来沙弥とは、元々は少年の僧侶、小僧さんのことでしたが、歴史を経てその意味が転じ、世俗の生活をおくる在家の仏教者のことをいうようになりました。

浄土真宗の宗祖であられる親鸞聖人は、播磨賀古の教信沙弥(きょうしんしゃみ)を崇拝しておられました。
教信上人は、元々は興福寺の学僧、今の言葉では仏教学者であられました。

しかしながら厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)の念が強く、興福寺を出寺し僧籍も離れ西の方向に向かい播磨賀古の地に住処を定めました。

髪も剃らず、袈裟や法衣を纏わず、草庵(そうあん)をむすばれそこに住まわれました。
在家の仏教者として妻をめとり田畑を耕し、旅人の荷物を運び生活されました。

ただそのような世俗の生活の中において、常に念仏を称えておられたのです。
その姿を里人は尊び、阿弥陀丸(あみだまる)と上人を呼びました。

このような念仏一筋の生活を終えて、阿弥陀仏の来迎をうけ極楽往生の素懐(そかい)をとげられたのでした。

覚如上人(かくにょしょうにん)著の「改邪鈔(かいじゃしょう)」には、親鸞聖人が教信上人を敬拝しておられたことが記されてあります。

「当世都鄙に流布して遁世者と号するは、たぶん一遍房、他阿弥陀仏などの門人をいうか。かのともがらは、むねと後世者気色をさきとし、仏法者とみえて威儀をひとすがたあらわさんとさだめ振舞うか。わが大師聖人の御意は、かれにうしろあわせなり。つねの御持言には、『われはこれ賀古の教信沙弥のさだめなり』と云々。しかれば(中略)御位署には愚禿の字をのせらる。これすなわち、僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと云々」

お聖人様は、僧侶俗人に関係なく、何よりも念仏の信心を尊ばれました。それ故、在家の念仏者であられた教信上人を心より尊敬されておられていたのでした。
では沙弥は中世という時代が生み出した仏教者だったのか?そうではないことを私はあるお寺の聞法会で知らされました。

その会は少人数の参加者でした。

私が、自己満足自力の念仏では500年阿弥陀仏を見ることができない、それを問いましたところ、60歳代と思われる在家の男性が「500年と限定しています、永遠に永久にとは書いてありません。ということは、自己満足ではどうしても済ませることができないはたらきが本願にはある、ということなんです。」

私はその言葉を聞かされて、全身で頷き深く感銘したことを昨日のことのように覚えています。

その人はまったく無名の市井の人でしたが、間違いなく本物の聞法者であったことを確信しています。

合掌

教信沙弥について