みなさんこんにちは!
出張僧侶のみょうせいで御座います!

ようやく「緊急事態宣言解除」となりましたね。メディアに疎い私はニュースと新聞を通して知りましたが驚きました。

「やっと終わった」「やっと遊びにいける」「解放された」「まだまだ心配だな」とお考えなる方それぞれだと思います。
そんな私は小心者のせいかまだまだ怯えています…

みなさんはいかがお過ごしでしょうか?

さて、タイトルにあります「コロナからのメッセージ」と名付けていますが、私はコロナウイルスから学べることはたくさんあると考えています。ですが、コロナウイルスによって現在苦しんでいる方、大切な方を亡くされたご遺族のお気持ちを考えると日々心が痛みます。大変な時代を生きていると痛感させられます。

コロナウイルスから学べると言いますか、
「本当に大切なことを教えてくれる」と表現した方がいいでしょうか。
それを具体的に感じたお話しをさせて頂きます。

私(みょうせい)には9つ下に弟が居りまして、現在大学2年生なのですが、去年4月に入学してから2か月後の6月にコロナウイルスが流行り始めました。最初は「来年になれば収まるだろう」と言っていましたが、今年に入り収まるどころか更に猛威(もうい)をふるって蔓延しました。そんな弟が「このままでは、おれの大学生活4年が台無しになる、友達とも遊びに行けないし毎日つまらん。オンライン授業もだるいし、今大学に入らなければ良かったよ」と覇気がない様子で言いました。私は9つ上の先輩にあたりますから、優しく説教をしました。

「(弟よ)気持ちはよく分かるけど、お父さんお母さんが汗水流して働いたお金で大学に入れたんだからそれは失礼じゃないか?大学に進学したくても、金銭的に進学出来ない人もいるし、つまらん大学生活だったと終えるよりは今この状況過で何が大切かを見つけて行けたら充実した4年間になるんじゃないか?」と。
そうしたら弟は「そうだね…」と少しおぼつかない態度で淡々と相づちを打ちながら聞いていました。この瞬間、私はハッ!としました。
自分で他人を説教した言葉ですが自身にも響いた言葉でした。
それは「いま自分は幸せか?」という問いがグサりと心の中に刺さりました。「コロナのせいで」と自分も色々と日々ケチを付けてはコロナに責任転嫁をしていました。

更に私の話しをしますが、恥ずかしながら去年入籍をしまして、まだまだ新婚ですが、コロナ過の中に入籍をしたものですから、結婚式、披露宴、新婚旅行と全てを滞り行なうことが出来なくて、紙切れ一枚(婚姻届)で結婚の形をとりました。ですから「コロナがなかったら結婚式も挙げれたし、新婚旅行にも行けたのに…コロナのせいで。」といつもケチを付けていました。

ですが、弟に向けた説教で自分自身はどうだ?
と問われた時に少し恥ずかしい思いをしたのです。

浄土真宗の開祖(かいそ)である親鸞聖人(しんらんしょうにん)は『現世利益和讃(げんせりやくわさん)』の中の一節で「南無阿弥陀仏を唱うればこの世の利益きはもなし」と仰っています。

え?浄土真宗では現世利益を言わないんじゃないですか?と疑問に思う方も居られると思いますので、念のため解説しておきます。

ここで親鸞聖人が仰る利益とは「わたしの願いがそのまま叶う」というご利益ではないということです。私たちが日々想像するご利益とは
例えば、物理的に欲しいものがあって(車やお金等)神頼み(神社等)をするわけですが、その結果自分の願いがそのまま叶った!なればイコール(=)神頼みのご利益と勝手に頭(思考)が計算をします。
※それぞれの宗旨等、お参りを否定している訳ではありません。あくまでも表現ですので温かい目で見て頂ければ幸いです。
ですから、親鸞聖人は「この世」と仰っているのは現在(now)のことを指しています。
私たち人間はご利益と聞けば「いつかこの先手に入るもの」仏教を聞いていれば「いつかわかるようになる(理解)」と先にあるものが手に入るイメージで期待を寄せますが、それだと身体(からだ)「間に合わない」ことがあります。
例えば、コロナがあける(終息)まで仮に10年かかるとします。コロナがあけた10年後に自分の身体が追い付かない可能性だって出てきます。
ですから親鸞聖人はあえて「この世」と表現されたんだと思います。
この御和讃に自分自身(みょうせい)のことを尋ねてみると「結婚式も挙げられず、新婚旅行にも行けず残念ですね。でも、家族と一緒に居る時間が前より増えて幸せじゃないか?」と問われている気がします。

不要不急の外出は控えましょうという言葉を聞くたびに今何を本当に急がないといけないのか、毎日問われている気が致します。

私たちは日々、本当に大切なことをどうしても見失ってしまうんです。本当に大切なことに気付かせてもらえる力が「コロナウイルス」にはあるのだと思います。

私を育てて下さった先生は、「もう少しこうだったら」という理想論で自分を苦しめることを
「思いの自分」と表現されました。

理想論を持つことは決していけないことではありませんが、自分に失望してしまってはただの傷つける思考にしか過ぎません。かと言って過小評価し過ぎるのもかえって毒です。真ん中を取るというのも難しいですから、「失望しない」という気持ちが大切なんだと思います。これは「気付く」ということから唯一頂ける力です。私たちは日々、本当のこと(ホンモノ)を知らない生き者ですから、時には違った目線で軽く「先人の知恵を頂いてみようかな」というきっかけが仏法の第一の扉であると思います。

私を育てて下さった先生(本日2回目の登場)は
「仏法を真実だと言いきりなさい」と教えて下さった言葉が今も自分を仏法に導いて下さっています。「仏法は真実だ!」と言いきることは親鸞聖人自身も「難しいことだ」と考えておられたでしょうから、なかなか厳しい言葉ですが、辛いなかどう生きていくか、どうコロナ過を乗り切るか深く考えて生きて歩んで参りたいと思います。

わたし(みょうせい)もあまり偉そうなことを申し上げられた立場ではありませんが、
自分の体験談をもとに仏法を聞いてどう考えが変わったのか、どう救われたのか、
をこれからもたくさんたくさん伝えていけたらと思います。

最後に、私を育てて下さった先生(本日3回目の登場。先生いつも有難う御座います)は
「坊主が説法するときはかっこいいことを話すな!どう自分が仏法から救われてどう考えたのかを話せ!」
と教えてくれました。私が法話で大切にしているモットーです。

運営されるスタッフの方々やいつも閲覧して下さる皆さんに感謝しています。
皆さんとこれからも一緒に教えを聞いていきたいと思います。

今日はここまで、最後まで閲覧有難う御座いました。合掌

コロナからのメッセージ