こんにちは!出張僧侶のみょうせいで御座います。大変ご無沙汰しています。
さて、私(みょうせい)先日コロナのワクチンを摂取しまして、連続で電話をしてようやく予約とれたのですが、
ワクチンを打つ前の出来事で、
「摂取をすれば副作用で熱が出る」という情報を聞いていたものですから、
事前に近所のドラッグストアへ車を走らせて熱冷まシートを購入しようと考えまして
陳列棚を探し周りましたが結局は全て品切れ。入荷の目処なし。ショックのあまり探し周りましたがひとつも売れ残りがありませんでした。
諦めず…さらに2件、3件とドラッグストアをはしごをしまして、同様に棚を探し周りましたが欲しかった熱冷まシートが最後まで結局手に入りませんでした。「欲しい」と思ったときに手に入らないことって苦しいですよね…
しっかりと日頃の準備が大切なことを思い知らされた日になりました…
なにごとも日々勉強ですね。くやしいけども…感謝です。
皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか?
さて、今日は「49日法要について」
お話しを致します。なぜ49日なのか、大変よくある質問です。なんで49という数字なの?
もう少し詳しく書きますと「七七日(なななのか)」と言います。
歴史的背景で最初はインドで七仏事「初七日(しょなのか)、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)、四七日(よつなのか)、五七日(ごなのか)、六七日(むつなのか)、七七日(なななのか)」今の法要に近い形が発足し、
それが中国へ伝わりさらに
「13仏事 百箇日(ひゃっかにち)、一周忌(いっしゅうき)、三回忌(さんかいき)、七回忌(ななかいき)、十三回忌(じゅうさんかいき)」と増え、更にそれが日本へ伝わりほぼほぼ今の原型に仕上がった歴史があります。
「49日」という期間を忌中(きちゅう)または中陰(ちゅういん)と言いまして、地方であれば自宅の玄関に「忌中紙(きちゅうし)」という紙を49日の間に張り紙する習わしがあります。
皆さまの地域ではいかがでしょうか?
私が住む関東では防犯対策上のためか、張り紙するお宅が殆ど無くなりました。時代と共に色々と変化します。家に誰も居ないことを公言しているようなものですから納得出来ます。
また、忌中という意味は、「大切な方を亡くして供養(くよう)に専念する期間」であることの外への意思表示にあたります。ですから忌中の期間は「神道(しんとう)」の概念で言う穢れ(けがれ)ではないということが重要です。
昨今は、神道の概念と仏事が混在していて非常に区別が難しくなっているのが現状です。会葬(かいそう)に来られた方にお渡しする「清め塩」も同じですが、厳密に区別すれば仏教とは全く別の概念になります。神道では「イザナギノミコトが黄泉の国(よみのくに=いわゆるあの世)に行った帰りに、身体を清めるために海水へ浸かった」という逸話があり、
その簡易的な物がお清め塩なのです。
また、通夜のお斎や精進落としも同じです。
昔、葬儀は遺族や隣組が組んで故人様を送り出していましたが、「手伝ってくれた人」に対して穢れへ対抗する手段として、お酒を遺族が振る舞ったという歴史の背景から現在も残っています。
ですが、仏法の歴史には「死者の世界=穢れ(けがれ)」という概念は全くありません。ここをしっかりと区別しておく必要があります。
私を育てて下さった先生は「中陰」の「中」のことを中途半端の「中」である。と表現されました。一見、少し厳しい表現に見えますが、
「霊魂(れいこん)が成仏(じょうぶつ)していない」という意味として言っていたのではなく、「生きている我々の心が中途半端である」という意味として表現されました。
例えば、「あの人はいい人」「あの人は悪い人」と他人の評価を私たちはしますが、それは「自分にとって都合がいい人」であったり「自分にとって都合が悪い人」でしかなく、外で起きてる出来事として事実を見つめてみると、
良いも悪いも根本的には無いということです。
よくお通夜やお葬式の弔電で「どうか安らかに」というご挨拶がありますが、簡単に言えば「極楽でゆっくり休んでいて下さい」という人生の労いのお言葉でありますが、
いざ、自分のお家で都合が悪いことが起これば「ご先祖」「家柄」のせいにして、現実逃避をしてしまう事実が日々の私たちの心です。
浄土真宗の開祖である親鸞聖人はこの心を「自力の心」と仰っています。
自力をもう少し簡単に解説すると、
私を育てて下さった先生は、
「鬼は外、福は内の原理」と表現されました。
これは、自分にとって都合がいい事柄は「もっともっと」と言い
今度は自分にとって都合が悪い鬼(人や災難)が来れば「あっちへ行け」という思考が働きます。
これが「鬼は外、福は内の原理」です。
親鸞聖人はお聖教の中で「ただ念仏すべし」と仰っていますが、私たち人間は「ただ」ということがいかに難しいことか考えなければならないという意味で「ただ」について簡潔明瞭に述べています。
というのは、生活する上で日々の私たちの心というものは決して「ただの心」ではないということです。今しなければならないことをそっちのけにして、あれもこれも手をつけてしまうから色々と失念していってしまうのです。
「中途半端」の私たちの心に対していつも優しい言葉をかけて下さる存在が仏さまでありますし、
そんな「見捨てない」存在に対して日頃の感謝を伝えていきたいものです。
以上今日はここまでです!
最後まで閲覧有難う御座いました。合掌