こんにちは!出張僧侶のみょうせいです!
先日日本列島に直撃した台風もようやく去り、関東の今日は何日ぶりかの晴天に恵まれました。あんなにどんよりした天気がまるで嘘かのようです。みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
さて、今日は今朝のニュースで取り上げられていた「所得倍増計画」について時事を取り上げたいと思います。
まず、新総裁を発端とした政府の狙いは、
国民の給与基準を上げて経済を潤そうという狙いです。給与が上がることによって、企業の経済を回すとのことです。
私は思うのですが、経済が順風満帆になり家庭の所得が増えることによって「幸せ(幸福)」になるという意図であればそれは違うと考えています。
とある僧侶の言葉は「死んだら持って行けないものを満たしても幸福にはならない」と言っています。福沢諭吉は、
「心訓」
一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。
一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。
と述べています。
私の好きな言葉で、とても背筋が伸びる格言であり、ここに「幸福」の鍵があると思います。
政府がもの申す幸福とは物理的な幸福を指し、「死んだら持って行けないもの」で幸福を得ようとしています。確かに、金銭がなければ生活が厳しいのは充分に理解出来ますし、とてもいい施策であると思います。ですが、「幸福に繋がる」と述べてしまってはボタンの掛け違いが起こってくると思います。
私は「給与を上げる」ことよりもまず、
「国民が一生涯仕事を貫ける環境作り」や「犯罪等で過ちを犯してしまった方が公正できるような環境作り」をして行かなくてはならないと思います。口では何度だっていくらでも言えますが、どうも「真の幸福」が薄れてきているように感じます。
どの家庭でも小さい頃から大人になるまで親から「勉強しないといい学校に入れないよ」「いい仕事につけないよ」と教わるわけですが、「いい学校に入れた」「いい仕事に就けた」ということが、結果的に親の願いに応えたとしても、根本的に考えてみれば「真の幸福」にはならないということです。仏法で言うところの幸福とは「私が私でよかった」と心から思えて最後に命終えていくことですから、幸福の質が全く異なるのです。ただただ、ひとくくりにした「幸福」で片付けられない問題があるのです。
理想の職業に就けなかった若者は「自分はだめな人間だ」
志望校に入学出来なかった学生は「自分は出来損ないだ」
という絶望を与えてしまう可能性だってあります。
希望と絶望は表裏一体でありまして、希望は諸刃の剣(もろはのつるぎ)と言えるでしょうか。ですから、政府が発表する「所得倍増計画」は希望の光にも見えますが、一方「闇」も潜んでいるのだと思います。「闇」の危険性を念頭に気を付けて施策されることが成功のヒントがある気がします。
私を育てて下さった先生は、
「わしゃネコを飼っている。ネコ(猫)は偉いぞー!白いネコは茶色にうまれたかったと言わないし、黒いネコは白いネコに生まれたかったと何がなんでも言わない。もうちょっとこうだったら…自分の環境がだめだ…と色々ケチをつけるのは動物の中で人間だけだ!」と仰っていました。
なにともあれ、
日頃、国民の為に職務をして下さっている方々に感謝の気持ちもあるので、あまり強く言えた立場ではありませんが、小僧の意見としてニュースを拝見して感じました。
私も真の幸福とは何かを考える必要がまだまだあります。「みょうせいがみょうせいで良かった」と思えるように、生活をしていきたいと思います。引き続き皆さんと一緒に日々教えを聞いていきたいと思います。最後まで閲覧有難う御座いました!
今日はここまで。合掌