こんにちは!
出張僧侶のみょうせいで御座います!

今日は「自死の方のご葬儀」について私の出張体験談をもとに一口申し上げます。

先日、葬儀社様からのお電話で「10代の女の子の葬儀をお願いできますか?」とお電話があり依頼がありました。
さっそく依頼をお受けし、話を徐々にお伺いするとなんと「自死」とのことです。

葬儀社の担当の方が
「わたしが自死とお伝えしたことはくれぐれも喪主さんに話さないで下さい。喪主さんから申し出があった際にだけ話を聞いてさしあげて下さい」
とのことでした。内心驚きましたが…

このことを踏まえ、喪主様にご挨拶(法名の打ち合わせや日時場所の確認)の連絡をすると
「お寺さん、娘は練炭自殺をしました。ただ、娘の自殺を知っているのは我々家族だけで、周りには病死であると伝えています。」とのお話しがあり、私はただ話を聞くだけでした。
儀式当日を迎え、法名授与をすると大変喜んで下さいましたが、お疲れだったのかまだ自分の娘の死を受け入れられないのかどこか落ち着かない様子で式を迎えました。読経中、あちらこちらから終止すすり泣く声が式場に響き、私も目頭が少し熱くなり声も震えましたが、お坊さんが泣いてしまっては儀式にならんと自分に言い聞かせ踏ん張りました。

出棺の時間がやって来ました。

式場には泣き叫ぶ声「怒らないから戻ってきてくれ!」「なんで私だけこういう目に合うの!」という声が響き、
僧侶としてベテランの部類に入る私も微力に感じました。

そして、お花入れの途中、喪主様が私のもとに駆け寄って来て「お坊さん!娘を生き返らせて下さい!なんでもしますので…」と土下座をなさって来ました。
私はびっくりして言葉が出ませんでした。「なんと声をかけよう…」ただ喪主様を慰めるばかりでした。
そして無事、葬儀·火葬が終わり、最後は火葬場を後にした訳ですが、終止「あわただしい」状況でした。
さて、今回の件について本題ですが、仏教の目線で教えを確かめていきたいと思います。
まず身内に「自死」を公表しないことは仏教的な目線で言うと「嘘(うそ)」にあたりまして、自分を苦しめるきっかけになります。
確かに自分の娘を自殺で亡くして諸々(もろもろ)後ろめたい気持ちがあることは充分に理解できますし、よくあることです。

ですが、「嘘」を重ねることは大変苦しいことです。その場で「自死」と公表することは一時的に苦しいことでありますが、その苦しみは永遠には続きません。一時的な苦しみです。ですが、自殺を「病死」に変換するだけで、一生フィクション(作り話)を作っていかなければならなく、永遠に苦しみが続く訳です。これが仏教で言う「嘘をつくな」という戒(いまし)めの根拠です。「戒律(かいりつ)」とは単に「罰(ばつ)」を人に与える法律のようなものではなく、「正しく生きると楽ですよ」という意味なのです。

私を育てて下さった先生は「罪と罰」の違いを
「罪は楽因楽果(らくいんらっか)、悪因苦果(あくいんくか)」
「罰は善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)」と表現されました。

さらに解説すると、「罪」は心の問題です。

善(よ)いことをすると心は楽で、悪いことをすると心が苦しくなるということで、因果(いんが)についてのことです。因果応報(いんがおうほう)という言葉がありますが、実は仏教用語なんです。
因果とは目に見えることだけでなく、目に見えない出来事についても言えます。
「罰」は悪いことをすると法律によって裁かれ、善いことをすれば法律によって守られます。

ですから、「罪と罰」をしっかりと日頃見極める必要があると思います。楽に生きるとは簡単なことのようで非常に難しいことですが、正しく生きることを力に精進すると、そうなっていけるのだと思います。
話が戻りますが、仮に「娘が自殺をしました」と公表したところで家族を責める方なんて居ないでしょうし、むしろ温かい言葉や愛情で周りの方に助けられると思います。

ですから、正直に生きる力を得るには、日頃から正直に生きるしかないんです。
「なんで私だけ」という声についても、
「私も一緒ですよ」と声なき声を発して下さる存在が仏様です。ですから、私たちも日々「なんで私だけ」と道に座り込んでいる方に対して「私もですよ、一緒に頑張りましょう」と手を握って差し上げる気持ちが大切なんです。
「なんでもしますから娘を生き返らせて下さい」
についても、なんでもするなら娘さんに「嘘」をつかない生き方をしていただきたいと思いました。嘘をつかないことで、娘さんの短い生涯の中でも生きた証(あかし)が皆の心の中にしっかりと刻まれますし、「今を大切に生きる」ということに繋がり教えて下さいます。亡くなられた故人様は生きる私たちに命の大切さを教えて下さる先生なのです。

蓮如上人は「朝(あした)には紅顔(こうがん)あって夕べには白骨(はっこつ)となれる身なり」と表現しています。
※『御文章』という書物の中に書いています。
これは、「人はいつ命終えていかれるかわからない存在であるためそれを世の道理として理解せよ」と言っておられます。
まさにその通りであり、人間として生を受ける=100%死を迎える存在が私たち人間です。
ですから、今をいかに丁寧に生き抜くということが大切なんです。

最後にまとめますが、
自殺で亡くなられた方を決して責めてはいけませんし、冷たい目線で見てはいけません。なぜなら自分の家族や立場を想像してみると全てが見えてくるはずです。
途中、喪主さまから「私も死んだら(自殺)娘に会えますか?」という質問もありましたが、
私はこの様に答えました。

「わかりません。会えないとは言えないし、会えるとも言えませんごめんなさい」

これは冷たい言葉のつもりで申し上げたのではなく、
仮に自分が死んで会えたらそれはそれで自分が満足ですが、逆に会えなかったときのことを想像すると悲しくないですか?という意味で申し上げました。ですから、自分から自殺した娘に会いに行くのではなく、向こうからまた会いに来てくれる考えに変えて頂けたらよろしいと思いまして、申し上げました。阿弥陀様も同じで、私たちが会いに行くのではなくて、阿弥陀様のほうから来て下さるのです。
私たち人間はどうしても姿(すがた)形(かたち)にこだわって生きるのが誰しも持つ心です。

私たち人間の目線から見た出会いと仏教から見た目線の出会いこれら2つの目線を持ち合わせることが必要なんです。すがたかたちにこだわる出会いはすがたかたちがある状態でなければ出会えません。ですが、すがたかたちを越えた出会いがもしあればどうでしょう?素敵ですよね。
すがたかたちを越えた出会いを頂けるきっかけが仏様の智慧(ちえ)です。智慧とははたらきのことです。
ですから「本当に人生に行き詰まってどうしようもない」という方にこそ仏法に出遇っていって頂けたらと日々願っています。

ご葬儀でお勤めのご縁をいただいたご遺族の皆様を匿名で例にあげて大変申し訳ありませんが、
閲覧された方の中に共感できる方々が居れば幸いです。

最後まで閲覧有難う御座いました!日々精進です。合掌

今を生きる