まず、「なぜ」この問いが法事を勤める際に一番大切な心構えとなります。
厳しい言葉と思いますが、この問い無くして法事を勤める意味は無いと言えます。

例えば、私が小さい頃は母親によく質問をしていました。
「なんで夏は暑いの?」
「なんで悲しいとき人は涙が出るの?」
「なんでご飯のときいただきますをするの?」
とあれもこれも質問していました。

なんと答えてもらったかは覚えていませんが、それなりに人として大切な心は教わって来たものです。

法要とは「仏法」に「なぜ?」を聞く場所であります。

それが「聞法(もんぽう)」といい、日頃と違った目線で人生を見つめ直す大切な機会であります。
また、「供養」という漢字も部首ごとに見つめてみると「人が共に養われる」と見ることが出来ます。これは生きる私たちが亡きご先祖のおかげで仏縁を頂き、それが我々の生きる源となって行く。そして、亡き人の存在をいつまでも忘れない…これが「人を想う心」に繋がり共に養われるという事実になっていくのだと思います。

法要の「法」とは仏法の「法」です。すなわち、これは仏説のことです。

ここでしっかりと確かめておきたいことがありまして、「お釈迦様の教えを聞いた」「お経を暗記して読経ができるようになった」ということだけでは、仏法に出遇ったという事実にはならないということです。

また、お釈迦様が説いた教えには8万4千の種類があると言われていまして、これはお釈迦様が偉そうにたくさん言いたいことがあったということではなくて、「たくさんの願いがあった」という意味で8万4千という数字を確かめて頂けると宜しいです。その願いとは、お釈迦様はおごり高ぶっている人には厳しい言葉で語りかけ、ひどく落ち込んでいる人には優しい言葉で語りかけたそうで、対機説法(たいきせっぽう)をしたそうです。また、病気に応じて薬を与える、応病与薬(おうびょうよやく)という例えもあります。

ですから、我々は日々お釈迦様や亡き人から声なき声の中で「大丈夫か?」と心配されながら生かされているのです。声なき声に耳を傾けるところから、本当の教えに出遇ったと言えます。

ちょっとした話ですが、今から2500年前にお釈迦様が生きた時代に直接お釈迦様の説法を聞いた方の中でも、お釈迦様に背いたり去って行った方がたくさん居たとの話ですから、教えに本当に出遇うということがいかに難しいことか分かります。

教えを理解することは大変難しいことですが、どうか心配なさらないで下さい。
仏様の心は「えらばず、きらわず、みすてず」の心ですから、決してあきらめないという気持ちが大切なのです。

私を教え育てて下さった先生の例えで仏道を、
「仏道とは、道に座った者が歩んでいく道を仏道という」と教えて下さいました。
人生は道に座り込むことの連続ですから、座った後に立ち上がって歩んでいく力を法要から学んで頂ければと思います。

長々とうんちく語り恐縮ですが、最後まで閲覧有難う御座いました。合掌

なぜ法要(法事)は必要なの?