こんにちは!
出張僧侶のみょうせいで御座います!
今日の関東の天気は昨日に続き快晴で、透き通った青空が広がり心地よいです。お布団や洗濯をするにも適した日ですね、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
さて、今日はタイトルにあります「戒名(かいみょう)は要るんですか?」ということについてお話しします。
この質問はお寺で一番よくある質問でして、ほとんどの方が尋ねて来ます。
また、インターネットで「戒名」と打ち込みをすれば「戒名はいらない」「戒名相場」等、勝手に検索エンジンで検索されます。それだけ世の中大勢の方が検索をなさっている結果と言えるでしょう。
まず、「戒名はいるんですか?」という質問ですが「戒名は要ります!」なぜか、
戒名とは「仏教徒(ぶっきょうと)」であることの証となります。俗名で葬儀を行ったのでは、それは仏教徒ではなく「仏教風」の葬儀を行っただけだと思います。
近年、戒名はランク付けをされていまして、いいお布施を払うといい戒名が付けられて、少額のお布施であればランク的に言えば、劣る戒名が付くという習わしになぜかなっています。
ですが、もともとの戒名の歴史をたどれば、「ランク」という概念はないんです。ランク的に言えば、最高位の「院号(いんごう)」はお寺の貢献度によって授与されるものでした。貢献度とは単にお布施を多く払ったということではなく「お寺に助力したか」というところがどうやら正しいようです。いつしか「貢献度=お金」に変換されてしまったことでランク的な概念が出来上がってしまったのだと思います。
私がここで申し上げる話はただ単に「院号は意味ないから一般的な戒名をつけたらいいんですよー!」という宣伝ではなくて、本当の戒名とは何か知った(本質を見極める)上でそれぞれお付けになった方が良い、というオススメの話です。
「漢字が多いほうがいい」「先祖に院号がついてるから院号にする」「うちはみんな俗名だから」それぞれ考えあっていいと思いますが、本質があっての至る結果であれば宜しいと思います。
現在、「俗名(ぞくみょう 戸籍上の名前)」で葬儀なされる方も徐々に増えて来ました。私はよく、「戒名料が高いから戒名をつけなかった」という話を聞きますが、「高い」というだけで俗名で葬儀をされるのは少しもったいないなと思います。
現在インターネットのサービスで低額で戒名を授与できるようになっている時代ですので、事前に色々知っておくということも大事なことなんです。「安かろう悪かろう」ではなく、仏教はひとつですから宗派は何種類あっても最終的には「みなの宗」なのです。ですから、ランク的なものは元々存在しないものなのです。仏教徒には仏教徒の名前があり、それが戒名なのです。
なんでも「騙されない」「身を守る」ためにも知識はやはり必要で、経験では補えない部分になります。もちろん高いから騙されたという意味ではなく、「納得」した上での話です。
戒名や法名は姿形(すがたかたち)が無い方と出会っていく大切なお名前であるのです。人として生を受けて誰しも必ず最終的には命終えていく存在が私たち人間です。姿形が無い方とどう出会っていくかが一番の問題であり、仏法を聞くための第一の扉となります。姿形が消えてからいかにしてどうやって出会っていくかが要(かなめ)なのです。我々の日々の出会いには、姿形がある状態以外にもうひとつの出会いがあり、「目線」をしっかりと確認する必要があります。私たち、人間の目線から見た出会いとは「すがたかたち」にとらわれた出会いで、「人は死んだら終わり、火葬場のフタが閉じた瞬間出会い終了」と思うのが誰しも持っている思い込みの心です。一方、仏法から見た目線での出会いというものは「永遠のいのち」なるものですから、計り知れない出会いが広がっているのです。
私がお世話になった先生の著書の中に、
南無阿弥陀仏という字の「南無」とは
「それっていいですね、私も阿弥陀さんの考えに賛成です」
『菱木政晴(ひしきまさはる) 極楽の人数(ごくらくのにんじゅ)』
と書いてありまして、お念仏(南無阿弥陀仏)を非常に分かりやすく解説しています。
宣伝ではありませんが、大変面白い本ですので、ご興味ある方はお求めなったら宜しいと思います。
私的にもう少し分かりやすく解説すれば、SNSに「いいね」というボタンがあるそうですが、「南無」とは「いいね」に近い意味合いがあると考えています。ですから、日々法要やらお仏壇の前で合掌して、「南無阿弥陀仏」とお唱えする際には毎度毎度「いいね」をしているんです。
お寺へお参りに来られる方の要件はそれぞれであり、楽しみでお参りに来られる方も居れば、大切な方を亡くされた方が供養の目的で足を運ばれる等様々です。
私の経験上、ほとんどが悲しみでお参りに来られる方ばかりですが、悲しみの最中にお参りに来られた方の心内は「すがたかたちを超えた出会い」に「いいね」をしに来られているのではないかと思います。
余談ですが、私の友人にアメリカ人のお坊さんが居まして、以前、英語のお経本を見せて頂いたのですが、「阿弥陀仏」の和訳に「アン メジャー」と訳されていました。
尋ねてみると「物差しで測れないもの」という意味だそうです。時には英語で訳してみると、難しい仏教用語も身近に感じるものです。
何を「物差しで測れない」かと言えば「出会いの長さ」のことを物差しで測れないと言っています。私たちは「すがたかたち」ある状態のみを出会いとし、「すがたかたち」が消えたら「ああ、これで出会えない」と思考の世界で出会いを測ってしまいますが、「亡き人(故人)」から見た目線での出会いとは、すがたかたちが無くても「存在」は消えないから、無限の出会いが広がっているのです。「物差しで測れないもの」とはつまりこういうことです。
浄土真宗の開祖である親鸞聖人は「恋(こい)しくば南無阿弥陀仏を唱(との)うべし我(われ)も六字(ろくじ)の中に住(じゅう)すなり」という言葉を残しています。親鸞聖人もただただお経や仏教を勉強したお坊さんではなくて「出会い」を大切にして来られたお坊さんです。「すがたかたちが無い方と出会うにはどうしたら良いか」という想いもあったのだと思います。
ですから、
「お念仏(南無阿弥陀仏)」とは単なる呪文のような言葉では決してありませんし、成仏させるようなおまじないでもありません。
2500年以上も続く仏教の歴史のなかで「南無阿弥陀仏」を唱えて、つらい人生を乗り越え、存在を超えた出会いがあると信じられて来たからこそ、お念仏(南無阿弥陀仏)が「残っている」のだと思います。これからもたくさんの方にお念仏を身近に感じて頂けるよう私(みょうせい)も努力して参りますので応援の程宜しくお願い致します。
今日も最後まで閲覧ありがとうございました!
合掌