浄土真宗における「彼岸」について。

はじめまして、出張僧侶のみょうせいと申します。

ある質問が「浄土真宗では魂の概念が無いのになぜ彼岸のお勤めをするのですか?」という質問です。

確かに浄土真宗では即得往生という教えのもと浮遊する霊魂の概念はありませんし、亡き人に対してのお勤めを致しません。「彼岸」の反対は「此岸」と申します。

なぜ此岸というか、
此(ここ)方(今)=現実の世界
という意味です。

一方、浄土という世界は私たちの思い込みで汚れていない世界です。私を育てて下さったとある先生は「人間は目が外に向いているから自分が見えない」と表現されました。

浄土はいわば、我々の理想的な世界の手本です。

私たちは日々荒波(ビッグウェーブ)のような人生を歩んでいます。
「楽しいこと」「辛いこと」の連続で、あれもこれも自分の都合で良し悪しを決めつけて、苦しむ心を人間誰しも持っています。この人間の根深い悩みを親鸞聖人は和讃の中で流転輪廻(るてんりんね)と表現されました。

ではどうしたら良いのか?

それは簡単なことで、波にのまれてからどうすれば良いのか、方向を理解して沖に泳ぐのか浜辺に向かって泳ぐのかでは訳が違います。
我々人間が持つ心は「勝手に決めつける」という気持ちが殆どの苦しみに繋がっています。泳ぐ方向をあきらかにするという仏縁を頂く機会がお彼岸なのです。
話が横にずれますが、私が好きな映画「おくりびと」の中で「どうせ食うならうまいほうがいい」という台詞を山崎努さんが言ってましたが、正にその通りで「どうせ生きるならうまい方がいい」でしょう。うまく生きるとは「自分をいかに客観的に見れるか」です。

客観視が生きるヒントになるでしょう。

さて、
今年は新型コロナウイルスの影響で、一時はどうなるものかと心配をしていましたが、彼岸も終盤を迎えて少しホッとしています。

私は住職に就任して3年目になりますが、自分自身成長したと感じるときもあれば「まだまだだなぁ」と感じるときもあります。もう少し立派な僧侶になりたいという理想像がちらついて、自力に頼っている日々が自分を反省させます。

「五濁悪世(ごじょくあくせ)のわれらこそ」という和讚を彼岸では拝読しましたが、
その「われら」の中には常に私も入っているのだと、この和讚を拝読する度に叱咤激励されます。

こんな自分ってダメななぁと感じることはダメではなく、むしろ自分を変えるチャンスでもあるのです。
そんな自分ファーストな私はもっともっとダメな私の自分自身の声を聞き、自分や他人の声を聞く姿勢をこれからも整えて行きたいです。

「五濁悪世」とは悪い世のことや濁りきったという悪口を説いているのではなく、
自分の置かれた状況や事実に目を逸らさず立ち直っていきていけるきっかけを与えてくれる働きが私の了解です。
「日々成長」という煩悩は消えないけど、一緒に教えを聞いて歩める仲間が居る限り私は僧侶としてこれからも歩んで行けます。

日々出会う仲間(ご門徒)に感謝。合掌

浄土真宗における「彼岸」について。